麻布本村町会史刊行に当って

わが町・本村町

第七代 町会長 久松安

本村町の起源は何年頃に求められるのか。確たる史実は見当らないが、遡っていくと千年以上前であることが想像できる。

大昔の人びとは、神社とお寺を部落のそれぞれの生活の拠り所としてきた。麻布氷川神社は、今から千百年位前の平安京の時代に「六孫王経基朝臣」によって創建され、「阿左布村」の総鎮守として集落の人びとの守り神となってきた。この地は、高台で南に古川の流れ、西には笄田圃があって農作物を作る人びとが集まり、商店が並び、行商人が往来し、生活必需品を作る職人達も集まって繁栄していたであろう。

長く続いた徳川幕府は、ここに町奉行と名主役を置いて日常の諸行事を掌ってきた。

やがて慶応四年(1867年)七月、年号を明治と改め十月十三日には江戸城を東京城と改称した。明治二年三月二十八日に明治天皇が東京城に入城し、東京は首都として急速な近代化が推し進められた。そして明治十一年(1878年)十一月二日、東京に十五区制が布かれ、「麻布区」が創設され、麻布本村町ができた。

明治三十七、八年の日露戦争中には出征兵士を送迎するため、町内の有志が揃いの羽織袴を作って士気を鼓舞した。その折に会名が必要ということになり「睦会」と定めた。これが本村町の前身である。

大正十二年九月一日の関東大震災には町会と在郷軍人会、青年団が協力して避難民の収容や救護にあたり、炊き出しをするなど大活躍した。

昭和六年(1931年)九月、柳条溝近くの鉄道を日本軍が爆破して起こった満州事変は、やがて昭和七年一月の上海事変、昭和十二年七月の日支事変へと進展していった。

昭和十六年十二月八日未明、日本海軍によるハワイ真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争が始まった。この頃から町会は戦時色一色となり、「撃ちてし止まん」との士気は昂まった。町内には防護隊ができて、男は巻脚絆に戦闘帽、女はモンペと防空頭巾に身をかため、隊長の号令一下竹槍訓練に励んだ。夜になると灯火管制が敷かれ苦しい毎日が続いた。そしてついにB29による東京大空襲を受けることになる。

一方生活必需品はすべて配給制度になり、日増しに苦しい生活が続いた。衣料と食料については、一人分宛の切符が渡され、衣料を点数表で購入し、食料はラジオで「港区麻布地区はスケソウダラ」等と放送され、各町会の隣組の役員を先頭に配給所から購入する仕組みだった。しかし、その食料配給も空襲が激しくなるにつれて極度に貧しくなり、玄米での配給米を一升瓶に入れ棒でコツコツ突き精白し、他の雑穀と混ぜて雑炊にして飢えを凌ぐような状態になった。昭和十九年に入ると軍の命令によって各家庭のすべての鉄やアルミ、銅などの金物は、兵器を造る材料として供出させられた。お寺の釣鐘までも供出することになったのである。

昭和二十年八月十五日正午、天皇陛下がラジオ放送にて終戦の詔書を全国民に告げられ、東京の空には空襲警報のサイレンが鳴らなくなり、戦争は終わった。本村町内は三分の一ほどが空襲により焼失したが、他の地区に較べ被害が少なく、幸いであった。やがて動員されていた軍人、軍属の男達が復員してきて、生き残った町会役員と消防団員の献身的な奉仕によって町内の復興は急速に進んだ。

昭和二十二年三月十五日には、東京市当時の三十五区制の行政合理化が実施されて、芝・麻布・赤坂の三区が統合され、「港区」となった。

町会では、昭和二十九年より町会々則に祭典部を新しく設け、氷川神社秋の大祭には旧来からの上之町、新町、南町が合同して、子どもを中心とした祭礼を行うようになった。

さらに、昭和三十四年皇太子ご成婚を記念して、町内募金により大人神輿(三十八万円)を新調した。また昭和五十一年九月には町会戦後三十周年記念事業で子ども神輿三台と山車三台、さらに人形衣裳等の大修繕を行って、盛大な祭礼がとり行えるようになった。

昭和六十二年五月には戦後四十周年(大正八年創立よりは七十周年)事業として本村消防会館の改修を行い、町民の葬祭等のために使用できるようになった。さらに、氷川神社大祭に町会創立七十周年を記念して、獅子頭神輿二頭を先頭に、子ども神輿と山車を巡行して盛大なる祭礼を行った。

わが町・本村町の流れを見てきて感ずるところは大である。この町会史を刊行するにあたり、遠い先輩諸氏の偉業を偲ぶとともに、昭和の現世の我が町の史実を、永く後世に残したいと祈念するものである。さらに、我が町の子孫たちが末永くこの歴史ある良き町を継承するに当り、幾分かの参考になれば幸甚に存ずる次第である。